まち歩きクラブの「史跡・伊奈屋敷跡地と備前堤見学会」が2025年02月28日(金)に開催されました。これは1週間前に開かれた「講演会・伊奈忠次」のいわば関連企画で、伊奈忠次が関東での活動拠点とした伊奈陣屋跡地(埼玉県史跡)を訪れ、その遺構を見学しようというものです。また今回は屋敷跡の裏門付近に残る「障子掘」が追加発掘中でしたので、埋め戻す前の堀の現物を見ることもできて大変有益でした。講演会の時と同じく関心が高く、この日も57名の参加者がありました。

江戸時代創成期の筆頭代官である伊奈忠次は各地で検地、新田開発、水運、河川改修を行い、特に利根川東遷、荒川西遷など現代の関東の土台を築く大事業を子孫の代までかかって成し遂げるなど、その業績は偉大なものがありますが、その活動拠点である「陣屋」を現在の埼玉県伊奈町におきました。屋敷跡は全体が島状の台地になっていて「伊奈氏屋敷跡」として県の史跡になっています。

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建物などは残されていませんが、当時をしのばせる堀や土塁などが良好な状態で残されており、当時からの神社(頭殿権現社)も現存します。今回は伊奈町の遺跡担当者(生涯学習課)の小杉さん、神田さんに現地で「障子掘遺構」の詳しい説明と屋敷跡全体を歩きながら案内をしていただきました。

最初に、新幹線が轟音をあげて通り抜ける鉄道高架橋のすぐ脇にある発掘途中の障子堀を見学しました。むき出しの赤土も生々しい発掘現場です。小杉さんの説明によると、この遺跡の障子堀は新幹線建設の時に初めて発見されたようで、この屋敷の地形が沼を控えた要害の地にあることから、岩槻城の枝城的な城として前身の「閼伽井坊」の時代から続く北条氏の築城になる本格的なものであったことを示しているとのこと。発掘された現在の遺構は屋敷跡の北西道路に面していますが、今後さらに奥まで研究をすすめたい意向のようです。

今回、発掘されていた堀も深さが3メートルほどあり、その堀底には、掘った土手を障子の桟状に区画してある様子がはっきり見え、水の入った状態であれば攻撃側の行動は相当困難になると思われます。幅の狭い堀でも十分防御に有効なものだと納得できます。「障子」の意味は形だけでなく、障害物ということのようです。こうした地下の遺構は通常は保存のため埋め戻されますが、今回は特別に見学できました。
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続いて屋敷跡の散策でも歩きながら担当者に説明をしていただきました。散策マップ(地図)も用意され、散策路が案内されているので、静かな林や草地の中を楽しんで歩けます。屋敷跡と思われる場所の下に残る高さ数メートルはある空堀の跡や二の丸跡の平地を歩きました。最後に敷地内に残る数少ない建築物である頭権現社前で全員で記念写真を撮りましたが、これは壮観でした。

11時半過ぎ、屋敷跡を後にニューシャトル・丸山駅にもどり、内宿駅へ移動。そこから県民活動センターに向かい、昼食後に簡単な研修会を実施ました(伊奈忠次が開始した関東の河川改修史と友の会の今後の見学会の目的地について)。

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会合後、午後2時過ぎ、ほぼ全員で綾瀬川土手を歩き、伊奈忠次が開始した関東の河川改修の歴史の中に登場する「備前堤」に向かいました。荒川の瀬替えにおいては最初に綾瀬川が締め切られていますが、当時は綾瀬川が荒川の幹川だったようです。そこを「備前堤」という堤防で閉め切り当時の荒川と切り離されました。この「備前堤」という名は伊奈備前守忠次に由来します。幅4メートル、高さ約3メートル、長さ約600メートルほどのこの堤(土手)は今でも残ります。この堤の完成によって下流の伊奈、蓮田方面の村は洪水の害をまぬがれるようになりましたが、現在の桶川市域を含む上流の村は大雨の降るたびに田が冠水し、その被害は大きく近年にまで及んだといいます。このため、出水のたびに、上流と下流の村々の間で備前堤をめぐる争いがしばしばあったと伝えられ、備前に堤にされた説明パネル(桶川市教育委員会)には、備前堤の効果よりも桶川の被害のことが強調されています(上の写真は「伊奈町見聞記」サイト(https://homertamatebako.sakura.ne.jp/sub18(ina).htm)を使用させていただきました)。

備前堤を見学後、ニューシャトル・内宿駅で解散となりました。

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