2024年(平成6年)2月16日(金)、午前10時、JR大宮駅・西口南改札前に集合です。この日は前日の「春一番」の強風の翌日で、北風の吹き返しがすさまじく電車も遅れ、参加辞退者も続出しましたが、最終的には先発2名を含め、23名の会員が集合、熱意と元気を感じました。まずは、水判土方面のバスに乗車して、新大宮バイパスを超えて、前回の最終地点に到着。そこから見える「水波田観音(慈眼寺)」へ向かいます。

水判土という地名はいかにも水の豊富な土地(あるいは湿地帯の田畑)を想像させますが、観音堂はここにまるで小さな城のように聳えています。鴨川低地からみると、地形が一段高く、かなり派手な朱色で目立つ水波田観音堂です。確かに社伝をみると、岩槻・太田氏の支配下にあった時代には砦としても機能していたようです。もともとは、慈眼寺の祈願所として観音堂があり、それが「(大宮)水波田観音」として地元の人たちの信仰を集めてきたようです。歴史資料によれば、古くはこの観音堂が慈眼寺の本堂であり、現在の本堂は書院であったようで、観音堂の本尊、秘仏として安置されている千手観音菩薩の尊像は、開祖である慈覚大師円仁が一刀入れるごとに三回礼拝して謹刻されたものと伝えられています。なお、水波田観音の像は、慈眼寺の秘仏として観音堂の中心の宮殿の中に安置されており、宮殿の手前に御前立(おまえだち)と呼ばれる化身の仏像が安置されています。私の過去の記憶では、境内にキツネ穴があったと思いますが、近年の改装の際になくなったようです。
水判土観音から慈眼寺の本堂参拝を経て裏手へ。元の地形を想像させるように、とにかく狭く曲がりくねっている道を用心深く歩いていきます。この辺りはほとんど川岸を歩くようになっていない(その気がない?)ので、鴨川を渡って直接「新大宮バイパス」に出ます。歩道橋でバイパスを超えますが、この17号・16号バイパスの工事は静かだった大宮西地域の自然・景観を一変させた大工事でした。この前後に鴨川の河川工事も行われたのでしょうか、この付近にも鴨川の蛇行跡があります。

少し先、新大宮バイパスに沿って南北に細長い地形に造成されているのが「三橋総合公園」です。広さは約10.3haで、温水プールが有名だそうですが、全体が三橋総合公園のすぐ隣を流れる鴨川の治水(遊水池)の役目を担っていることがわかります。川沿いの遊水池はアシ原が広がり、池と湿地が混在するビオトープで、かなりの種類の量類・生物が生息できそうです。市民にはこちらが歓迎されるでしょう。東浦和の芝川遊水地ほど大きくはありませんが、これは良い公園だと評価できます。
公園で休憩後、両岸に広がる団地やマンション、ゲームセンターを眺めながら淡々と進むと、行く手に工事中の橋と埼京線の鉄橋が現れます。苦労してくぐりますが、鉄橋は越えられないので、回り道でその先にある番場公園へ向かいます。鴨川沿いの細長い児童公園で、子供広場と呼ばれる芝生広場の北側の一角に立つ圧倒的に大きな複合遊具が特徴らしいです。


ここから程遠くない、日進町の北側、鴨川の東側に隣接し、南北に約350m、東西で約70m、面積が約2万㎡の雑木林を「三貫清水緑地」といっています。この地の南北中央に「鎌倉街道」が通り、その西側の低地に、水深1m程度の沼地が2箇所あり、「三貫清水」と呼ぶ場所があるためです。この地の伝説で、中世の太田道灌が、この辺りに狩りにきた時、土地の人がこの清水を汲んで茶をたてて出したところ、「とてもうまい」といって三貫文の褒美を下さったとのことで、「三貫文の値うちのある湧き水」という意味で「三貫清水」という名前が付いたといわれています。私の記憶では小学生のころにもきたことがあるんですが、「鎌倉街道」も「太田道灌」も記憶にありません。自然保護を行っているボランティア団体があるのですが、近年は夏でも湧水が出なくなったということを聞きました。


このあとは、鴨川を淡々と歩き続けます。上尾市に入り、富士見親水公園を越え、揺木橋付近に「向山不動堂」という指定文化財の彫刻を持つお堂があり、ちょっと寄り道。近くの道路にはの左袂に「あきは道」と刻まれた庚申塔が立っていてかつての往来を忍ばせます。この橋付近が、河川法上の鴨川の起点らしくここまでくると川幅も狭く、川というよりは排水路という感じになってきます。


最後の兜橋(市道323号=上尾環状線付近)が鴨川の源流で、ここで、川は終わります。橋の直下にぽっかり空いた直径2メートルはあろうかという異なる方向に向かう巨大な2つの排水路(トンネル)から、地下に沸いた水がたまり、地上の水路=鴨川に流れ出ているのがわかります。源流の水というのはどこでも岩(土)の間から染み出てくるものです。かなり人工的に見えますが、これが鴨川の源流で間違いないでしょう。

ただし、有名な「鴨川源流域の碑」という記念碑は、ここから15分ほど先、JR桶川駅近くの「さいたま文学館」駐輪場付近に建てられています。あくまで「源流域の碑」で「水源の碑」ではありません。兜橋付近は行政上は上尾市でしょうか。鴨川はこの付近で、台地上の湿地から湧き出したいくつもの流れを集めて下流へと流れていたのでしょう。ここから、桶川駅を越えて中山道に向かって土地はゆっくり登ってはいますが、実際の標高差がほとんどないこの地では大きな谷をつくることもなく、特定の場所を源流とするこことも難しいのでしょう。付近の地名である「井戸木」や「泉台」も湧水の多い地形を示しているようです。
個人的なことですが、このあまりぱっとしない川とその流域が私の故郷の原風景なのです。今回、下見を含めて全部で5~6回、この川に沿って歩き、懐かしい風景をたくさん見ることができました。
(おまけ 「ずずむき橋」の謎)
ところで、鴨川歩きの最終地に近くづくころ、中央公園付近に「ずずむき橋」という橋が架かっているのに気が付きました。漢字表示はありません。どんな文字なのか、どいいう由来なのか。気なって調べてみると、同じような「すずめき川」という地名が、東京(成増)と埼玉(和光市)の間を流れる白子川付近にあることがわかりました(現在は暗渠になってしまっています)。説明では「百々向川: 別名として<百々向川>とも書かれていることがあります。この川は、かつては「百々女木川」とも呼ばれ、光が丘公園付近から始まり、成増駅付近を通って、旧白子側に合流していた川でしたが、現在は暗渠になっています」。語源としては「音や鳴き声からの命名とされ、川の流れる音や雀の鳴き声にちなんで名付けられたと言われているようです。
細い川の流れが絶えることがなかった時代の様子を示しているのでしょうか。現在の「ずずむき橋」には洪水監視用のライブカメラがセットされていますから、今でも雨季には水が洪水のように流入することがあるようです。