友の会まち歩きクラブの2024年最初のイベントは「鴨川を歩く―荒川合流点から源流まで」ということで、桶川駅付近に源流をもち、大宮台地を南進して彩湖近くで荒川に合流する鴨川(かもがわ)を流域の施設や文化財・史跡などを探しながら2回に分けて徒歩で歩いてみようというものです。鴨川はさいたま市近郊の代表的な河川で、一級河川荒川水系で、河川整備法では「上尾市北部の台地に源を発し、荒川に合流する、流路延長19.2km、流域面積63.69k㎡に及ぶ河川」です。まず、第1回は合流点から大宮西部の水判土(みずはた)付近までとなります。

2024年(平成6年)1月26日(金)午前10時にJR武蔵野線西浦和駅改札前集合。寒い中でしたが、参加者は25名といつものように皆さん熱心です。駅から秋ヶ瀬橋に続く大通りを進んでまずは昭和水門へ。鴨川の合流点は武蔵野線・西浦和駅からすぐの荒川左岸になります。この付近は対岸に主な市域がある朝霞市の領域になっています(埼玉県朝霞市上内間)。市域が入り組んでいるのは元の荒川の流路がたびたび変更したためでしょう。合流点のため、鴨川と荒川の数位調整を行うのがさくらそう水門と昭和水門が設けられています。道路からは間近にある巨大な「昭和水門」が望めます。この水門の機能には・鴨川の水を荒川本川に合流させる=鴨川の排水と洪水時に荒川からの逆流を防止・洪水時には水門を閉じて付近の水位を守るの3点があります。


近くを流れる鴨川放水路はこれも鴨川の洪水対策で、現在、桜区役所のある辺りから直線で合流点に向かっています。この付近は古くから街道(鎌倉街道・奥州街道)があり、1938年頃まで「秋ヶ瀬の渡し」があり、ほぼ真西に富士山が見える名所(秋ヶ瀬富士)でもあります。この日もきれいな白い富士山が見えましたが、写真ではちょっと厳しいか。

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ここから鴨川の上流に向かいますが、最初に鴻沼川(こうぬまがわ)に出ます。すぐに並木道が現れ、これが「鴨川堤桜橋通り公園」という道路に沿った公園で、中浦和駅から続く大きな遊歩道の一部ですが、ここは文字通りかつて蛇行していた鴨川の旧堤防の跡とのこと。荒川が河道を変更する以前の「入間川の旧河道」でもあり、鴨川の歴史がわかります。当然のことながら桜の木が植えられています。旧流路あとは他にもあります。
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遊歩道が終わると桜区役所体育館があり、ここで休憩。次いで埼玉大学グラウンドを横目に鴨川岸辺に出て、土手を進むと小さな流れが流れ出ています。ここはかつての鴨川が荒川に流入していた場所で、いまその流れの跡が公園になっていまして、その名も「千貫樋公園」。鴨川の旧流路跡を幅100m、長さ500mにわたり整備したもので、そこに設けられた水門が千貫樋(せんがんぴ)です。江戸期以来の、荒川からの流入による地域の洪水を防ぐために設けられた鴨川の排水樋管で『新編武蔵風土記稿』には「銭千貫文で樋管を築造したが、完成しなかったので千貫樋の名を残した。」の記録があり、ここで幾度も洪水が起こったことを示しています。現在の樋は1904年(明治37)完成で関東の土木遺産。上の道路は旧堤防で、県道を兼ねているので現在も供用継続で、この大久保地区の主要幹線ですからかなり交通量の多い場所です。

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この日は寄りませんでしたが、付近には「大久保神社」や「大久保浄水場」などがあります。次いで、大久保公民館で休憩のあと、「古墳群」へ。調べてみると鴨川の中流域には多数の古墳があり驚きます。さいたま市桜区大久保から同区白鍬にかけて分布する古墳群で一般に「大久保墳群」と呼ばれています。かなり多数の墳墓があるようで、一部の古墳は市指定史跡、県選定重要遺跡に指定されて地図にも載っています。

8851.jpg一行は、まず最初に①塚山古墳②神明寺古

墳を見学しました。両方とも個人所有なのですが許可を頂いて見学させていただき、また所有者の方のお話をうかがいました。自宅の裏庭が文化財してされた古墳というのも面白です。2つのうちの塚山古墳は前方後円墳または前方後方墳ともされるかなり大規模な墳墓で、頂上には稲荷神社が祭られていて、この付近の民間信仰をあらわしています。

ここでから少し進んで文明堂浦和工場あおぞら工房へ。2Fラウンジで休憩、さらにここで、バスで大宮駅西口まで帰るコースと他の古墳を見学して水判土地区まで歩くコースに分かれました。半数以上の会員が引き続き古墳の見学に参加です。

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この日行ったのは③白鍬塚山古墳④権現塚古墳⑤かね山古墳⑥台耕地稲荷塚古墳⑦茶臼塚古墳⑧西高稲荷古墳─などで、いずれも大宮西部の新興住宅街に埋もれるように減算していますが、これも地域の景観です。ここは、かつての入間川流路地域ですので、豊かな農地があり、さらに上流側には側ヶ谷戸古墳群、下流側には土合古墳群がありますから、この地域の古代の繁栄をうかがわれます。なお、古墳が築かれた時期は、出土した円筒埴輪や人物・馬形の埴輪などから、6世紀から7世紀前半とみられています。

一行は、水判土観音堂付近からバスで大宮駅西口まで帰りました。

(筑井 記)



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