友の会まち歩きクラブの10月の行き先は「武蔵国分寺跡と崖線の自然地形」です。JR武蔵野線・中央線の西国分寺駅は乗換駅で私もよく利用しますが降りることはあまりありません。この日は記録的に暑かった今年の夏が本当に終わったことを告げるような秋晴れで絶好の散策日和でしたが、改札口前に男女19名が集合しました。

7896.jpg

午前10時、駅を東方向に出るとすぐに府中街道をたくさんの車が音を立てて走り抜け、その横をJRの中央線、武蔵野線という幹線が東西南北に通っています。東西の交通の要衝であることがわかります。ここで、この日の歩行計画を説明しましたが、付近の地形をみるとこの西国分寺駅も中央線も武蔵野線も、元々ここにあった多摩川の河岸段丘を崩して造成されたものであることがわかります。最初の目的地である「姿見の池」も駅からすぐに見える崖線上のみどりの林の中にあります。手入れされた雑木林をまっすぐに歩いているとやがて木々の向こうの低地の水面が見えてきました。ここは恋ヶ窪という湧水地帯で、に見えたのは姿見の池。他にもいくつもの水の流れがあるようです。この日あとで訪ねることになりますが、一帯の豊富な湧水群が、この場所に、古代には武蔵国分寺を建立させ、中世以降は鎌倉街道の宿場ができる大きな理由だと思います。中心にある姿見の池には、地形の説明とともに、この付近を南北に走っていた古代道路・東山道武蔵道の説明板も建てられています。

7895.jpg

ここを過ぎ住宅街に入ると、すぐにものものしい有刺鉄線のフェンスに囲まれた一角があらわれ、これが日立製作所の中央研究所です。広大なこの敷地の中には武蔵野崖線の中心をなす野川という川の源流になっている池があります。ただし普段は公開されておらず、池から流れ出す川は西武線・JR線の下の見えない暗渠となって、遊歩道のようになっている道の下に埋まって流れる音だけがかすかに聞こえます。

そのまま進むと、すぐに隣の国分寺駅に到着します。駅前には巨大なマンション群もありますが、その駅前すぐにに殿ヶ谷戸公園があるというなんともぜいたくな街です。殿ヶ谷戸公園は、明治以来の何人もの財閥の手を経て完成した庭園で、国分寺崖線の特色である高低差のある地形とそこに湧き出る豊富な水流を利用した小川と清らかな池―それを取り巻く木立の中の回遊式の散策路など、狭い場所を立体的に活かした名園です。この湧水は、あとでいく「お鷹の道」と同様の知られた名水で、おもわず時間を忘れて立ち止まってしまいます。

7894.jpg

庭園を抜け、南にを進むと、これも「国分寺街道」という古道で「一里塚」という地名の場所に、先ほどの幻の野川が姿を現します。まだ源流付近のためか思ったより細い流れです。そしてここから「お鷹の道」が始まります。これも崖線の下に沸く真姿の池湧水群から野川に流入する流れ沿いの散歩道です(ただし、実はその半分ほどは野川沿いを歩けないのが少し残念)。ゆっくり歩くと途中に国分寺跡資料館があります。個人宅を改装したようで、規模は小さいのですが、熱心なボランティア解説員のお話をうかがいます。その後、隣のオタカフェで休憩。我々にはこうしたお休みタイムが必要です。

このお鷹の道の源流である真姿の池湧水群はこの先のまさに崖線直下にあり、現在でも複数の池が確認でき、噴出している様を見ることができます。この崖線を登ったとことろには広大な国分寺公園があり、そこでお昼タイムとしました。国分寺市は公園や緑地がたくさんある場所だと感心します。

実はこの国分寺公園がある崖線の上の一部までが、武蔵国分寺跡の遺跡エリアで、武蔵国分寺跡、講堂跡、七重の塔跡などを含む「武蔵国分寺寺跡」が広がります。現代人の感覚でいうと、東京のやや郊外のこの素朴な地にこのような広大な施設がつくられ、隣接する府中には武蔵国の国府や国衙が造られたというのはちょっと不思議ですが、当時の地理状況では、ここは武蔵国の中心と考えられていたわけで、相模国や東海道にも行く、そのため東山道も通っていたのでしょう。

武蔵国分僧寺・国分尼寺跡は関連する住居まで含めると東西1.5キロ、南北1.0キロにおよぶ広大な敷地のなかにあり、国指定史跡として保存されています。しかし、昭和30年代に本格的な発掘が始まるまでは一面の畑や牧草地が広がっていたようで、今でも付近にはのどかな田園地帯の雰囲気が残されています。残念ながら地上には伽藍など遺跡の跡はまったくないようですが、古くから付近の地名などでその縁が偲ばれたようです。

7888.jpg

まず訪れた国分僧寺跡には講堂跡、金堂跡が広い草地になって保存されています。伽藍の位置を示すと思われる石の礎石が置かれ、中央にあるやや高さのある台状の飾りブロックで造られた構造物でその雰囲気を知ることができます。武蔵国分寺は七重の塔がありました(先の資料館には数メートルの高さがあるその模型が展示されています)。

この塔がなかなか見つけにくいところにあり、地元の人に聞いてしまいました。途中に私有地の畑があり、視界を遮っているためですが、七重の塔はあまり重要視されていない?感じを受けました。区画の中央に聳える銀杏の大木の近くにあるのが心柱の礎石のようです。

7886.jpg

次に府中街道と武蔵野線の高架をくぐり、国分尼寺跡へ。途中にもう一カ所、国分寺跡資料館の分館があり、ここではわかり易いビデオを見ることができました。これも国分寺市の作成です。国分尼寺跡は敷地が小さいので、中門や金堂のあとが残されています。また基壇とよばれる特殊な工法で固めた地盤を再現した場所を見学できるようになっています。地味な遺跡をなるべく興味深く見せようという工夫と思われます。

この基壇には大きな瓦がたくさん敷き詰められているのですが、この古代の瓦の8割が埼玉県鳩山町の窯業施設で作られたものとわかり、復元にあたり、鳩山町の人々の協力でこの瓦が現代に再現されて使われています。この縁で両自治体は友好協定が結ばれているそうです。

尼寺のある場所は東山道のある位置でもありますが、それより後代の鎌倉街道の跡が残っています。最初に見た「恋ヶ窪」はこの鎌倉街道の宿になります。ここから南へほんの少し進むと新田義貞の鎌倉攻めの際の古戦場である分倍河原に至ります。古代から中世の動乱の時代まで歴史の舞台になった場所であることが思われます。

68e1cb.jpg

西国分寺駅方面に進むと、いかにも中世の道を思わせるような、河岸段丘を切り通した雑木林の中の道が出現します。「伝・鎌倉街道」です。距離は短いですが気持ちがいい。こうした雰囲気を残した鎌倉街道は、毛呂山町の史跡・鎌倉街道跡とここくらいではないでしょうか。やがて史跡通りという住宅街に出て駅に到着です。
(筑井 記)

カテゴリー 未分類
コメント 0
トラックバック 0