午前10時過ぎ、歩き始め、まずは菅谷城(菅谷館)を目指します。今回、県立嵐山史跡の博物館は見学しない予定でしたが、ロビーを通過する時に、菅谷館の案内パンフレットをいただきました。菅谷館跡(菅谷城)は、鎌倉時代に武蔵武士の畠山重忠が居住した所と伝えられていますが、重忠以後は、わずかな文献に記されているだけで、詳しい変遷を明らかにしません。伝承で「館」という指定名称がされていますが、戦国時代には数度にわたる改築を受けて城郭として整備拡大したものと思われます。福島正義氏著の『武蔵武士』にも「明らかな城」と記されています。
実際に、歩いてみると、周囲を都幾川が形成したかなり高い河岸段丘の上にそびえる城で、そこに土塁と深い堀に囲まれた広い廓をもち、山城とは違った堂々たる城郭の雰囲気を見せている史跡といえます。数百年の風月を経た城の内外には豊かな植生が育ち、崖下の低地部分もチョウやホタルの生息地として保護されています。
次いで、都幾川と合流している槻川の土手を遡って武蔵嵐山渓谷へ向かいます。本多清六翁が「京都の嵐山を思わせる渓谷美」と讃嘆して名付けられた「武蔵嵐山」は、いまやこの土地の名称(市名)になり、埼玉県の一大観光地にもなっています。この遊歩道を進むこと30分、正午前後に「見晴らし台」に到着、ここで昼食休憩としました。
そして午後、いよいよ小倉城へ向かいます。谷間を縫う槻川のヘアピン蛇行に沿って行くと右手に見えてくる小高い丘が城郭が点在する城山です。沿道にはときがわ町が作成した観光用の「小倉城」の赤い幟がはためき、期待を高めます。小倉城は攻守一体で様々な工夫が凝らされた削平地をつらねた戦国時代の山城です。ただし、その登山口は自然のままの道なのでやや険しい坂になっています。ここは慎重に登り、尾根に着くと、ウグイスやコジュケなど鳥の声が響き、スギ林のなかはコナラ、クヌギなどの落葉樹の新緑がきれいです。緩やかなアップダウンの道を10分くらい移動、土塁と堀が現れ、一部にブルーシートがかかっています。発掘途中の小倉城北廓跡のようです。
山上に切り開かれた城跡をめぐって戦国の世の戦いを想像しなら一の廓、二の廓と進みます。眼下には槻川の流れ、はるかに菅谷城方向が見渡
せます。小倉城は、外秩父の山地帯と関東平野の境界にあり、槻川と山地の自然地形を巧みに取り込んだ天然の要害にあります。城の位置取りは、陸路は鎌倉街道上道と山辺の道(山の根の道)の中間で双方へアクセス可能な位置にあり中世の水陸交通を強く意識したものとなっているそうです。ややマニアックになりますが、この山の根の道というのは、鎌倉街道の主要な道筋である上ノ道、中ノ道、下ノ道の 3 本のほかにあった枝道、間道のひとつで秩父から青梅、五日市、八王子など、山辺を縫う様に走る道でした。(八王子市公式ホームページ (city.hachioji.tokyo.jp)にはちおうじ物語其の三 主な構成文化財として出ています)
さらに、三の廓の見える位置に移動し、この城の特色のひとつである、独特の石組土塁を見学しました。説明のパネルも用意されていて、ときがわ町の意欲を感じます。この山の土台になっている緑泥石片岩を長方形に切り出して積み上げた石組みは、大阪城など戦国から近世の大規模な平城の石垣とは異なる独特の形状をもっています。北関東の山城の土塁の中では異色だと思われます。この山のすぐ隣には青山板碑制作跡の遺構(国指定史跡)があります。その上は青山城です。自分の地下にある豊富な石材を利用した地産地消の山城だといえます。
同じ道をたどり、午後4時前、武蔵嵐山駅に到着しました。皆さん元気です。(筑井 記)