昼近くから生憎の雨となりましたが、64名の方々にご参加頂きました。盛り沢山の貴重な内容で、古代史フアンには大変意義ある講演であったように思う。講演の概略は以下の通り。

・「倭国」は「卑弥氏」の国で、「前50年~204年」の直後頃まで朝鮮半島南部に在った(『三国志』『後漢書』など)。最初から「日本列島」に在ったのではない。
従って「倭国(大)乱」〔霊帝の光和中(178年~183年)-『梁書』〕とは半島内での出来事で、韓の南にあった倭国が「韓と濊」の侵攻を受けて「乱れた」ことを指す。
・倭奴国については「松野連系図(卑弥氏)」に「中元二年に漢へ和通し、印綬を賜る。倭奴国王を称す」とある。半島南部に在った「倭国」の一部が「紀元0年」頃博多に上陸して建国した国であろう。
・倭国への行程と萬二千餘里の説明:「従郡至倭、循海岸遂行。」(「帯方郡」から「倭国に上陸」するまでは、「海岸に沿って水行する」)―倭国に至る大前提。従来説は「従郡至倭、循海岸遂行、・・・」となっており,これが間違いの元。
・「倭国乱。相攻伐暦年、乃共立一女子為王。」:「卑弥呼」は「相攻伐暦年」の後に「共立されて王」になり、その後「倭王」になっている。「倭国(大)乱」は「倭国内の争い」ではない。「相攻伐暦年」は「伊都国王権」との戦いである。「倭国乱れ、相攻伐暦年、・・・」という解釈は誤りである。
・陳寿は邪馬壹国へ至る行程には必ず「行く」という動詞を付けている。それを辿ると「邪馬壹国」に至る。「邪馬壹国」は「福岡市南区~小郡市」で、都は「小郡市」である。そして卑弥呼の墓は小郡市の「津古生掛古墳」と考えられる。