東京の下町を南北に流れる隅田川は、江戸時代には物資輸送の主役であるばかりか、川を取り巻く近隣の風景は多くの人が訪れる名所でもありました。両国橋などそこに架かる主要な橋の周囲では興業や市が開かれ、花火大会も盛大で、浅草や日本橋は経済と文化の中心であったのです。現在、東京の繁栄は西部に移りつつありますが、この川の歴史と今や近代化遺産になったそこに架かる橋が人々の関心を引き続けています。

現在、一般的には荒川区の千住大橋から下流を隅田川とよびます。この両岸には「テラス」と呼ばれる遊歩道が建設され、かつての江戸の風景とはまったく異なりますが、次々に現れる川辺の高層建築と文化財に指定されたものを含め10数本の橋を眺める「テラス歩き」が新しい観光になっています。今回、この隅田川沿いにつくられた遊歩道を歩きながら趣ある橋を眺め、付近の文化景観を観察する企画をたて、5月20日にその第1回目を行いました。25名という多くの参加がありました。

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コースは、JR常磐線の南千住駅前駅から午前10時にスタート。駅前の日光街道から千住大橋に向かい、汐入大橋、汐入公園、水神大橋、隅田神社(水神社)、白鬚橋、桜橋、言問橋、隅田公園を経て吾妻橋で浅草到着、さらに駒形橋、厩橋まで歩き。最後はJR御徒町駅となりました。上の写真は白鬚橋、下は隅田川神社に残る水神の碑です。

一行は千住大橋を渡り、かつての木橋の跡である杭が見そうで見えない「千住小橋」を越え、一部遠回りしながら汐入大橋へ。この汐入大橋付近では江戸時代以前から現代までの隅田川と付近の景観の急激な変遷に思いをめぐらせた後、隅田川神社で「水神の碑」や古代からの「渡し場」として栄えていた歴史を学び、名橋として名高い白鬚橋を越えました。右に墨田公園を見ながら桜橋、言問橋を過ぎ、浅草の吾妻橋で昼食休憩。午後、これも中央部に馬のレリーフが残るデザイン豊かな厩橋を渡って岐路につきました。

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 景観変遷の面白さを感じさせる水神宮付近の地形

隅田川に大正年間から昭和初めの建設橋が多いのは、関東震災の復興事業と第1次大戦後の海軍軍縮による造船業救済のためだそうです(千住大橋、白鬚橋、言問橋、駒形橋、厩橋、蔵前橋、両国橋、清洲橋、永代橋などがそうです)。


リベット接合によるごつごつした柱ですが90年以上たっても頑丈です。今回歩いたなかでは白鬚橋、言問橋、吾妻橋、駒形橋、厩橋が都の文化財に指定されています。千住大橋も実に立派な橋で建築時期も白鬚橋より古いんですが文化財指定されていません。ちょっとかわいそうです。このように、隅田川の橋にそれぞれ別の工法やデザインを採用したのは実利・技術面と景観を考慮したためだそうで、「橋の博物館」と呼ばれるようになりました。

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このコースでの地理的に興味深いのは隅田川がほぼ直角に曲がって浅草方面に流れを変える汐入大橋から水神大橋、白鬚橋までの付近です。関東の主要河川は15世紀ころから流路変更・改修により大きく変化していますが、この水神大橋付近は古くは入江(汐入の地名由来になっている)であり、綾瀬川との合流点で難所でもあったことからここに水神祠がおかれ、いまの隅田川神社になっています。


江戸時代はこの付近の左岸にある隅田堤と右岸、浅草手前の日本堤の2つの堤防のためにここから北の地域は洪水時調整地で低湿地帯でした。明治以降、常磐線・東武線の開通で石炭や生糸原料の納入地となり、多くの紡績工場(大日本紡績(ユニチカ)、鐘淵紡績(クラシエ)など)や工場が建設され、さらにここ20年ほど前からのその跡地の再開発によるスーパー堤防上に汐入公園やマンションができて付近の景観は一新しました。

 次回(2回目)は6月17日(金)に予定

6月に予定されている第2回では、今回の続きということで、両国橋からスタート、蔵前橋、両国橋、新大橋、清洲橋、隅田川大橋、永代橋、中央大橋、佃大橋さらに勝鬨橋と巡ります。後半のこのコースの方が文化財指定(国、都)されている橋が多いのは江戸・東京の中心部に近いためでしょうか。 
(筑井 記)

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