戦争といっても500~600年前のこととなると、歴史の時間の中で血と殺戮のにおいは消えてしまい、一種のロマンになってしまうのが不思議です。そうした雰囲気を感じさせてくれるもののひとつが日本の各地に残されている城郭―特に自然の中に放置されたような山城で、埼玉県の北部はそんな遺構がたくさん残っている地域です。春の一日、そんな山城のひとつ埼玉県嵐山町の杉山城跡を見学し、その前後に2つの石仏群(町指定)を訪れました。
午前10時、武蔵嵐山駅に集合、参加者は20名。まずは線路沿いにやや歩くと広い道路に出会います。ここが比企地域の歴史にも深くかかわる(旧)鎌倉街道で、そこからすぐ、静かにたたずむ「志賀観音堂の石仏群」があります。地元の太子講奉納の聖徳太子石造やいくつもの庚申塔など町指定の文化財を鑑賞・調査、シダレザクラに迎えられ付近の里山風景にも自然に溶け込んでいい感じです。
そこから市野川を越えた河岸丘陵の上にある嵐山町役場を訪れました。ロビーで杉山城の解説ビデオを流していただき、じっくりと知識をインプットした後、再び市野川沿いの道を歩いていよいよ杉山城へ向かいます。
杉山城は、直下を通る鎌倉街道を見下ろすような丘陵の尾根上に多数の郭(くるわ)を配置した山城ですが、規模はそれほど大きくはありません。中央部の本郭を中心として北・東・南の三方向にそれぞれ二の郭、三の郭を梯段状に連ね、大手口に面しては外郭と馬出郭、井戸に面しては井戸郭が配置されています。小さいながら、主に土で形成された急角度の土塁と城郭や深く掘られた空堀は見た目でもわかるように入り組んでおり、攻め寄せる敵にとっては迷路であることがわかります。城郭考古学者の千田嘉博氏が「絶対に攻めたくない山城」で1位に選んだというように、各郭には様々な工夫が凝らされており堅固な防御力と敵への攻撃力を誇っています。上の写真は井戸廓の下にある本物の井戸。城の最後に際して石の蓋をしたようです。下の写真は本廓直下の空堀。本来の溝はもっと深く、上には防柵などもあったでしょうから徒歩での攻撃は難しかったと思います。現在からみれば子供の遊びにもみえるようなスケールですが、弓矢、槍、刀での血みどろの戦いが想定されていたのです。
写真3
この城が成立した、日本の戦国時代(室町幕府の時代)の初めころ、関東では「長享の乱」と呼ばれる関東管領山内上杉氏と同族の扇谷上杉氏による一連の戦いがあり、当時の嵐山町は、山内上杉氏の拠点である「鉢形城(寄居町)」と扇谷上杉氏の拠点である「河越城(川越市)」の中間にあり、付近では多くの戦死者を出す戦闘がありました。そのことからこの杉山城は山内上杉氏が扇谷上杉氏に対抗して築城したものと考えられています。その後も小田原北条氏の関東進出の中で、上野国と鉢形城、河越城を結ぶ鎌倉街道の中間にあって重要な役割を担っていたものと考えられています。
城の全体を見学後、搦め手と呼ばれる城の後方に緩斜面に造られた東・北廓を通る経路で山を下り、城山丘陵を分けるように通過する古道の上にある、これも町指定の文化財「六万坂の石仏」を見学し、予定を終了しました。