まち歩き研究会、今回は「毛呂山・鳩山町の史跡と文化財、新緑の鎌倉古道」ということで、5月11日、快適な気候の中、埼玉県中央部に位置する比企郡の毛呂山町、鳩山町にまたがる歴史文化財、史跡をまわりました。参加者は28名。
今回は「鎌倉街道」がメインになりました。いわゆる鎌倉街道とは中世に政治の中心であった鎌倉と関東諸国や信濃、越後、陸奥を結んだ主要道路のことで、鎌倉幕府の御家人たちが街道を行き来するなかで、鎌倉街道沿いでは数多くの合戦が行われ、軍事道路であり、物流の幹線でもありました。参詣道でもあり、一名、善光寺街道といったそうです。
午前10」時、東武越生線の川角駅に集合。少し歩いた細い水路沿いに「歴史の道」の標識があります。町おこしの活動のようで、ここ数年、こうした標識が各地で増えています。県道(114号線)に出て少し左に進んだ細い農道の入口にも「鎌倉街道へ」の標識。ここから雰囲気は何となく古道になります。10分ほど田園地帯を進むと「鎌倉街道遺跡」の白い杭が目に入ってきます。薮に覆われて今は使われていませんが、ここから高麗川方面に向かって鎌倉街道の本道があったことが発掘調査の結果わかってきました。そして、ここから先の、遺跡道の延長線上にある雑林中の掘割状の道路が現在に残る鎌倉街道というわけです。
一行はこの鎌倉街道をそのまま北進して県道39号線を越えるます。右には毛呂山町の歴史民俗資料館があります。ここは展示も充実した資料館なのでもっと時間をかけたいのですが、今回は学芸員の方に街道のことやこれから見学する毛呂山町の文化財について解説を30分ほどお願いして、先を急ぎました。
資料館を出てすぐの鎌倉街道の左右の林の中にも古墳が目につきます。川角古墳群です。別れ道に面した円墳の上に江戸初期の庚申塔がおかれ、周囲の静かな自然の風景に溶け込んでいます。林内の古道を左折すると崇徳寺跡になり、さらに進むと3メートルを超える延慶の板碑(県重文)が現れます。板碑には「沙弥行真」と「朝妻氏女」の2人の名が刻まれていて、県博にもレプリカがある重要文化財です。
ここから先は街道の周囲に特別支援学校や運動施設が作られ、かつての風景は失われていますが、越辺川沿いの苦林宿があり、近くには苦林の古戦場もあります。古戦場跡ははっきりしませんが江戸時代に造られた合戦供養塔が苦林古墳群の中に残っているので、それを探しに向かいます。
すぐ近くですが、ここは苦林古墳群となっていて、林の中や畑の中に大小の古墳が残存しています。味気ない道路整備は行われていますが、一帯のゆるやかな丘陵の雰囲気はかなりのどかです。丘陵を少し登った林の中に十社神社があります。ここには苦林合戦の戦死者を祭ったという伝説があります。その先の畑の中に2つの前方後円墳がありますが、奥にある古墳の上に、目指す合戦供養塔があります。正面には状態もよく立派な千手観音菩薩像が刻まれています。七夜待塔とのこと。ここで記念撮影。
ここを最後に越辺川岸にもどり、自然豊かな土手を歩いて、現代の鎌倉街道(171号線)に入り、今宿橋を越えて鳩山町へ。目の前がおしゃもじ山です。おしゃもじ神社にお参りしてから山頂(?)へ。昼食休憩。予定では、ここから希望者は新田義宗と足利尊氏の戦いの伝説が残る笛吹峠まで歩くことにしていましたが、予想以上の暑さで疲れた方が多く、今回は中止としました。健脚の方、ごめんなさい。