◆新春企画・・・一年の幸福をもたらしてくれる!  七福神めぐり
 平成30年1月8日(月・祝日) JR品川駅 午前10時集合 20名が参加する。 曇り一時雨であったが問題なく歩く。 
 ・品川周辺は寺院34ヶ所、神社16ヶ所と古くから七福神が祀られています。
  鎌倉、室町時代には江戸湾の重要な港として栄えてきました。徳川氏が江戸に入り慶長6年(1601年)に東海道五十三次を定め、品川は第一の宿駅となる。

・まち角の歴史案内看板・・・・・いたる処に横丁が走っています。
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・今日は七福神だけでなく、街並み・由緒ある寺社・歴史を伝える商家建築などを楽しむ。駅を出発、旧東海道品川宿でも有数な規模を誇り、なまこ壁で飾られていた旅籠屋の土蔵相模跡を訪ねる。(高杉晋作、伊藤博文など、幕末の志士たちがイギリス公使館焼討の密議を重ねた妓楼の跡!(今は案内版のみ) 次はこの相模屋の要請を受けて品川に来た、建築の壁などを漆喰で仕上げる職人で「伊豆の長八」のこて絵の作品が見られる「善福寺」に寄り、龍などの作品を見学。木彫の左甚五郎に並び称される名工です。東京にあった作品は関東大震災・戦災で消失する。尚、出身地伊豆松崎町には多数の作品展示がある。  
 
・この後、「法禅寺」へ行く。江戸時代の終わりの頃の嘉永6年(1853年)黒船が来たとき、幕府は江戸を守るために品川沖から深川の洲崎沖にかけ「品川台場」を造りました。この時、高輪の丘陵地や御殿山を切り崩し土砂を使用した。
作業中に少量の人骨とともに五輪塔や宝塔印塔と一緒に120余りの板碑が掘り出される。それをまとめて「法禅寺」に埋葬して納めたとある。その碑を見に! 板碑は品川歴史館にも展示されています。                 ・やっと、七福神めぐりです。一番目は寿老人「一心寺」です。健康・長寿・病気平癒をお願い!七社寺お巡り色紙を購入(1000円)し、印を頂きます。
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・二番目は布袋尊の「養願寺」です。笑門来福・夫婦円満です、しっかりとお願いする。
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・三番目は大黒天で、北品川宿の鎮守「品川神社」五穀豊穣・財運を願う。徳川家ゆかりの社。見所多くある。宝物殿も開館されており、重厚で貫録十分な千貫神輿や神楽面などが見られた。また、霊山を崇める山岳信仰が古くからあり、ここ品川にも富士講が多くあった。今はここだけとか!
希望者だけで富士山を登頂してきました。「富士塚」 そして、社殿裏には、しっそりと板垣退助夫妻の墓所があり
管理者は世田谷区千歳烏山の高源院とか! 神社は関係なく、通路となっている。
 
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・次は、まちの有志たちで運営する無料おやすみどころ処。懐かしい駄菓子の販売や情報を提供してくれる品川交流館に立寄る。いつ来ても不愛想な対応が気になる。・四番目は毘沙門天、東・南品川宿の鎮守「荏原神社」 府中市大国魂神社のくらやみ祭の「潮盛り」の神事は、神職一行が品川の海上に出て潮水で身を清めるとともに、清めの湖水を神社に持ち帰ります。ここから「くらやみ祭」の一連の行事が始まります。
神社入口の河津桜が早や咲いていました。  また、珍しい子持ち獅子を!
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・品川橋は目黒川によって北と南に分断され、江戸時代は「中の橋」「行逢(ゆきあい)橋」また、「境橋」とも言われた。

・歴史を伝える美しい商家建築。東海道筋にレトロな店構えの店を探すのも、楽しみの一つ。
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・ここで、昼食をはさみ、後半は、午前中通過してしまった、「本陣跡」を見学し、将軍家の保護を受け、文化財も多く、有名人が多く眠る天妙国寺や新選組ゆかりの旅籠屋釜屋跡に行き、五番目、毘沙門天の「品川寺(ほんせんじ)」で祈願する。1時30分頃、雨が落ちてくる(直ぐ上がる)。    
    急ぎ、立会川駅にある坂本龍馬像に!H22年に建立。黒船来航の時期、立会川の河口付近に土佐藩の下屋敷があり、警固していた。続いて、「浜川橋」 今世の別れを告げた「なみだ橋」「。鈴ヶ森刑場に引かれる罪人と縁者が涙ながら別れた場所です。「浜川砲台」も見てきました。沿岸防御のため浜川砲台に据え付けられていた8門の大砲のうち、6貫目ホーイッスル砲を地元有志らが募金活動等によりH27年復元設置。

・因みに、お台場完成後の防衛は、江戸湾を海防を担当していた譜代大名の「第一台場」は川越藩、「第二台場」は会津藩、「第三台場」は忍藩の3藩が担った。


・六番目は福禄寿、「天祖・諏訪神社」にて健康長寿を願う。(ダイジョブかな!)
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もう少しです。北品川から鈴ヶ森刑場までは江戸時代から伝わる旧道として当時の道幅のまま面影を残している。当時は、玄関口として栄え、宿内家屋1600軒、人口7000人であった。江戸4宿の一つ(品川宿・千住宿・板橋・内藤新宿)

・いよいよ最後は弁財天の「磐井神社」です。1400年余の歴史を誇っており、『日本三大実録』で官社に列せられたの記あり、その後「延喜式神名帳」にも記されている。幾度かの戦火をくぐってきたがその名の姿は「江戸名図絵」等に「鈴森八幡宮」の名で記録されている。財運・一層の学びを祈願する。
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午後3時に無事、行程を終了しました。お疲れさまでした。
又、足を痛め動きが悪かったことに対し、深くお詫び申し上げます。
ご協力に感謝申し上げます。                                        (M記)
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